5-13 物質中の拡散現象の解明を目指して

−中性子準弾性散乱の新たな解析法の開発−

図5-34 水の中性子準弾性散乱

図5-34 水の中性子準弾性散乱

中性子散乱実験で得られる準弾性散乱スペクトルは、弾性散乱(エネルギー遷移が0)を中心として山型に広がったシグナルをしています。複数の拡散運動が存在する場合、それらのシグナルが重なって表現されるため、運動の種類や速さ・経路などを直接特定することは困難です。図中の赤い点は試料容器によるシグナルです。

 

図5-35 解析により得られた水の緩和モード分布関数

図5-35 解析により得られた水の緩和モード分布関数

新たに開発した解析法により得られる緩和モード分布関数では、各拡散運動が独立して表されます。そのため、運動の種類数や速さなどを直接知ることが可能になります。

拡散は、電池材料として注目されているイオン・プロトン伝導材料の性能やタンパク質等の生体物質の機能発現メカニズムに大きくかかわる現象です。拡散現象の解明は、これらの性能や機能の原理を理解し制御することにつながるのでとても重要です。中性子準弾性散乱法は、物質中の原子・分子の拡散運動の時間(速さ)と空間(距離,範囲)の関係を調べることできる数少ない手法で、ほかの手法では難しい拡散現象の詳細な解明が可能です。しかし、従来の準弾性散乱のデータ解析では、本来ならば最終的に知りたいはずの拡散運動のモデルを先に仮定する必要があるために、そのモデル自体の正しさを証明するのが困難でした。その解析は複雑で時間を要することもあって、中性子準弾性散乱の利用は少数の専門家に限られていました。

このような状況を解決するため、私たちはモデル仮定の必要のない汎用解析法、すなわち得られた結果からモデルを推定する「普通の」解析の流れを実現できる方法を開発しました。この解析法では、物質の全拡散過程を単純な拡散現象の集合体として扱います。単純な拡散とは、平均した場合に一定の緩和時間(拡散にかかる時間)で後戻りすることなく徐々に拡散する現象のことです。この場合、拡散過程は時空間における緩和時間ごとの強度(存在密度)分布という形に変換できます。この分布関数を緩和モード分布関数と呼び、拡散運動の数や種類,速さなどを直接知ることができます。変換には最大エントロピー法という情報理論に基づいた計算法を使用しています。

この解析法を水の研究で初めて適用しました。測定にはJ-PARCのアマテラス分光器を用いました。この分光器は高分解能で広領域な測定が可能でこの解析法に非常に適しています。図5-34は得られた室温の水の準弾性散乱スペクトルです。この図から直接的に拡散運動の特徴を捉えることは困難です。このスペクトルに新しい解析法を適用すると、図5-35の緩和モード分布関数が得られます。この結果では三つの独立した拡散運動の存在が明確で、詳細に見るとそれらの特徴も明らかにすることができます。このうち中間に存在する運動は、新しい解析法により発見できたもので、水の拡散現象の全容解明につながる重要な結果です。

この新しい解析法を普及させていくことで、材料・生物を含む広い分野で拡散現象の研究が進み、科学技術の発展に資する新しい発見につながると期待されます。



| | | | |