5-6 中性子散乱によるセシウムの分離機構の解明

−π-d 混成軌道の形成による選択分離の実現に向けて−

図5-18 ベンゾクラウンエーテルとCs+がつくる錯体構造

図5-18 ベンゾクラウンエーテルとCs+がつくる錯体構造

(a)はCs+に対して良好な選択性を示すベンゾクラウンエーテル(DB20C6)の化学構造を示しており、(b)はDFT計算により求められたベンゾクラウンエーテルとCs+がつくる複合体(DB20C6/Cs+)の構造を示しています。ベンゼン環のπ軌道とCs+d 軌道の混成で、DB20C6/Cs+はDB20C6よりも回転半径の小さな折れ曲がり構造を形成します。

 

図5-19 DB20C6とDB20C6/Cs<sup>+</sup>の混合溶液から得られた中性子小角散乱(SANS)測定の結果

図5-19 DB20C6とDB20C6/Cs+の混合溶液から得られた中性子小角散乱(SANS)測定の結果

DB20C6/Cs+とDB20C6の混合比を変化させた4種類の溶液[0.8 : 0.2(紫),0.5 : 0.5(青),0.2 : 0.8(緑),0 : 1(赤)]によるSANSデータ(色付きの点)を示します。散乱強度が減少をはじめる波数(q m)と溶質の回転半径(R )には反比例の関係が成り立ちます。R の小さいDB20C6/Cs+の割合が増えるほど(q m)が高波数側にシフトすることは、DFT計算の結果(実線)と良い一致を示しています。実験は米国オークリッジ国立研究所の核破砕中性子源(SNS)に設置される装置を用いて行われました。

 


東京電力福島第一原子力発電所事故以来、放射性セシウム(Cs)による環境汚染,汚染水の処理,廃棄物の減容化等が問題になっています。私たちはこれらの問題解決に貢献するため、様々なイオンが混在する溶液からセシウムイオン(Cs+)を選択的に認識し、分離することができる化合物の開発を進めました。

Cs+は、クラウンエーテルと呼ばれる環状の有機化合物で捕捉できることが知られていますが、Cs+のみならず同じアルカリ金属イオンであるナトリウムイオン(Na+)やカリウムイオン(K+)も同時に捕捉されるため、その選択分離は困難でした。そこで私たちは、クラウンエーテルに類似する様々な化合物について調べたところ、図5-18(a)に示すベンゾクラウンエーテルが、Na+やK+と比較して、1000倍以上強くCs+を捕捉することが分かりました。この原因を分子構造論的視点で明らかにできれば、さらに捕捉効率の高い試薬の開発に向けた指針を得ることができます。

今回私たちは、密度汎関数理論(DFT)中性子小角散乱(SANS)法によってそのメカニズムを明らかにする研究を進めました。DFT計算でベンゾクラウンエーテルとCs+による複合体構造を検討した結果、図5-18(b)に示す折れ曲がり構造が得られ、その電子状態を分析すると、ベンゼン環のπ軌道とCs+d 軌道が特異的に混成していることが示されました。d 軌道に電子を持たないNa+やK+ではこのような混成軌道をつくらないことが、Cs+に対する高い選択性に寄与していることが分かります。

SANS法では上記の検証を行いました。本手法は軽元素で構成されるナノスケールの構造を観察するのに適した方法です。Cs+とベンゾクラウンエーテルを溶液中で混合すると、図5-18(a)と(b)の状態がある割合で形成されます。その割合を系統的に変化させてSANS測定を行った結果が図5-19です。SANSデータにおいて、回転半径の小さい折れ曲がり構造を持つ複合体の割合が増えるほど、散乱強度が減少をはじめる波数が高波数側にシフトしていることは、DFT計算の結果と定性的に良い一致を示しています。さらに、DFT計算で予想される構造モデルを用いてSANSデータを計算したところ、実験結果と定量的に良い一致を得ることができました(実線)。この結果、図5-18(b)の構造が証明され、π-d 混成軌道の形成がCs+への選択性に強く関与していることが明らかになりました。今後、本研究で明らかにされた特異的な相互作用を利用した分離試薬の開発、実用化が期待されます。



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