図6-9 PrPb3の結晶構造と正ミュオンの停止位置
図6-10 零磁場,6KにおけるPrPb3のμ+SRスペクトル
近年、環境負荷の低い次世代エネルギーとして水素エネルギーが注目されています。水素は取扱いの難しい気体ですが、水素吸蔵合金と呼ばれる物質中に貯蔵することにより、安全かつ効率的に利用できるようになります。水素吸蔵合金は水素を単原子の形で結晶格子の隙間に取り込みます。この格子間水素の状態を微視的な観点から理解することは、水素吸蔵・放出特性の改良を進めていく上で極めて重要です。
私たちは正ミュオン(μ+)という素粒子を使い、水素吸蔵合金の関連物質中における格子間水素の状態を微視的な観点から調べることにしました。μ+は+1価の電荷と陽子の約1/9の質量を持つことから、軽い水素原子核とみなすことができます。ゆえに、μ+は物質中において水素の同位体と同等の化学的性質を示すと考えられます。μ+を物質中に打ち込むと、結晶格子間に停止したあと、陽電子とニュートリノに崩壊します。この陽電子の放出方向から、μ+の持つ小さな磁石(スピン)の向きを知ることができます。μ+スピンは周囲の電子や原子核のスピンと相互作用することにより刻々と向きを変えていきます。この運動を解析することによりμ+の置かれた環境に関する知見が得られます。
私たちは、代表的な水素吸蔵合金MmNi5(Mm:軽希土類の混合物)と同じく希土類金属間化合物に属するPrPb3という物質から研究を始めることにしました。まず、スピン偏極したμ+ビームを用いて磁場中においてμ+スピン回転・緩和(μ+SR)の測定を行い、試料中に打ち込んだμ+が二つのPrイオン(Pr')の中間に止まることを突き止めました(図6-9)。次に、零磁場において同様の測定を行ったところ、図6-10に示す特徴的な構造を持つスペクトルが得られました。このスペクトルは、μ+サイトに微視的な磁場が生じており、その大きさが量子化されていることを示しています。詳しい解析により、μ+に最も近い位置にあるPr'のf電子状態が物質固有の状態から変化して、Pr'-μ+スピン間の磁気的な結びつきを強めていることが分かりました。さらに、磁場の量子性からこの結合が極めて異方的であることが明らかになりました。
格子間に侵入した水素様粒子が周囲の希土類イオンのf電子と相互作用する様子を、局所磁場の量子化という形で明確にとらえたのはこれが初めてのことです。今後、実際に水素吸蔵合金としての応用が期待されている希土類系合金に対して同手法を適用し、この相互作用が物質の機能にどのような影響を与えているのか詳しく調べていく予定です。