図4-4 (a)Cl+イオンと同時計測された放出電子の分子座標系角度分布と (b)HOMO-1の分子軌道
図4-5 HOMO-1からのトンネルイオン化角度分布
強いレーザー光を分子に集光して照射すると、光が作る電場は分子を構成する原子核の電場に匹敵する強度になります。その結果、分子内部の電子が感じるポテンシャルが歪み、トンネル効果によって電子が放出されるトンネルイオン化が起きることが知られています。このイオン化では、最もエネルギー的に不安定な分子軌道 (HOMO)の電子が優先的に放出されます。それ以外の軌道の電子が放出されるイオン化について理論予測はされていたものの、観測例はありませんでした。
私たちは、最新の計算理論に基づく大規模シミュレーションにより、塩化水素(HCl)分子のイオン化率の角度分布を各分子軌道に対して求めました。その計算結果はカナダ国立研究機構(National Research Council of Canada)との共同で行ったHCl分子のトンネルイオン化の観測結果と見事に一致し、初めてHOMO以外 の軌道の電子が放出されていることを明らかにしました。
HCl分子のHOMOからのイオン化でできるHCl+イオンはH-Cl結合解離を起こしませんが、それより安定な内殻軌道(HOMO-1)からのイオン化でできるHCl+イオンは容易に結合解離を起こすため、H+イオンあるいはCl+イオンが生成するイオン化を観測すれば、HOMO-1からのイオン化に関する情報を実験的に得られると期待されます。そこで、真空中に導入されたHCl分子に強いレーザー光を照射し、生成する電子と解離イオンであるH+イオンあるいはCl+イオンを同時に計測しました。電子の放出方向をもとにイオン化時の電子放出方向を、解離イオンの放出方向からイオン化したときのHCl分子の向きを決定できます。したがって、一つのHCl分子から放出される電子と解離イオンの放出方向をもとに、分子座標系での電子放出角度分布を実験的に決定しました (図4-4(a))。
得られた角度分布はHOMO-1の形状(図4-4(b))に似ており、更にシミュレーション結果と見事に一致すること(図4-5)から、HOMO-1からのトンネルイオン化を観測した、と結論しました。
この研究は、HOMO以外からのトンネルイオン化の初めての観測例であり、光電場中での電子や分子挙動の解明につながります。また量子力学の普遍的事象であるトンネル過程の解明にもつながる成果です。レーザー物理学はもとより、物理学全般に広く影響を与える成果であるといえます。