10-2 水素に起因する鋼の強度低下の謎を解明する

−水素原子と鉄原子の動きを再現可能とする原子スケールモデルの開発−

図10-4 水素が鉄のき裂の進展に及ぼす効果のシミュレーション

図10-4 水素が鉄のき裂の進展に及ぼす効果のシミュレーション

開発した原子スケールモデル(原子スケールでの動きを再現するモデル)を用いて、水素原子がない場合(a)及び水素原子(赤い点) がある場合(b)について、き裂が進む様子を計算した結果を示しています。中央にある結晶粒界面の左右で結晶の向きが異なって おり(緑:右向き,青:左向き)、この結晶粒界面をき裂が進展しています。(a)(b)とも、き裂が起き始めてから同じ時間が経過した後の状態を示しており、(b)の方が、き裂がより進展していることが分かります。

鋼などの金属材料中には、原子配列の部分的乱れ(格子欠陥)が多数存在し、その数や動きやすさなどの性質が材料の強度を決める要因となります。材料に外部の環境から水素が侵入すると、これら格子欠陥と結びつき強度に大きな影響を与えます。その原因にはいくつかの説があり、結晶粒界面に水素が集中することでこの面が割れやすくなるという説や、水素によって材料内部にボイドと呼ばれる小さい泡のような格子欠陥が生成されやすくなり材料が割れるきっかけとなるという説などが提唱されていますが、どれが主要な原因かは分かっていません。主要要因を明らかにし、その防止策を講じることで、初めてより劣化しにくい原子炉材料を開発することが可能となります。

そこで、この問題を解決するため、水素原子と、鋼の主要構成要素である鉄原子の原子スケールでのふるまいを再現する分子動力学モデル(原子スケールモデル)を開発しました。これまでにもいくつかの分子動力学モデルが開発されてきました。しかしながら、それらはごく一部の種類の格子欠陥と水素との相互作用を再現するよう個別に開発されたものだったため、調査可能な相互作用の種類が限られていました。そこで、本研究では、数十ケースに及ぶ代表的な種類の格子欠陥と水素原子の配置について電子構造計算手法を用いた計算を行い、格子欠陥と水素原子がどのように相互作用するかを詳細に調査することで、質,量ともに従来より優れた基礎データに基づいてモデルを構築できました。その結果、より汎用的に相互作用を再現できる計算を行えるようになりました。これにより、水素を含む鉄の材料が割れる過程で、どのような格子欠陥がより強度に大きく影響しているかの調査が初めて可能となりました。

図10-4は、水素原子がない場合(a)と、水素原子がある(鉄の結晶粒界面に集中している)場合(b)について、開発したモデルを用いてき裂が進む様子を計算した結果を示しています。水素原子がある場合の方が、同じ時間の間に、き裂はより進展し、結晶粒界面の強度が30%程度低下することが分かりました。劣化の原因となる格子欠陥への水素の集中を防ぐ材料を開発できれば、現行材料の2倍程度の強度となることが期待できます。今後は、このモデルを用いてボイド生成のき裂進展への影響など他の格子欠陥の影響も定量的に評価することで、水素による材料強度低下の主要原因の解明を目指します。