図11-2 モバイル水素効果の概念図
図11-3 破壊前後のエネルギー差の計算結果
水素が原因で生じる鉄鋼材料の脆化については100年近く研究の歴史がありますが、その脆化の現れ方は極めて複雑で様々なバリエーションがあり、脆化メカニズムはひとつではないと考えられています。そのため、その全体像は未だよく分かっておらず、「群盲象をなでる」状態にあると言われています。
本研究では、主に高強度鋼においてその中に侵入した水素によって結晶粒界に沿った割れが生じる現象(粒界水素脆性)に着目し研究を行っています。通常の金属材料はひとつの結晶ではなく、数10 μm以上の大きさの結晶の粒の集合体として構成されており、結晶粒の間の境界に結晶粒界と呼ばれる不整合な構造を持っています。そこに水素が集まることによって、結晶粒界に沿った割れが生じますが、この現象ひとつとっても詳しいメカニズムはよく分かっていません。
本研究では、第一原理計算という量子力学に基づいた電子状態計算法を用いて、鉄の結晶粒界に水素が集まることでその結晶粒界が割れやすくなること、そしてさらに、き裂が進んでいる最中に水素が動きまわることによって破壊表面の形成を助け、結晶粒界を割れやすくするという複合効果が働いていることを定量的に明らかにしました。そのような働きをする水素はモバイル水素 (mobile hydrogen) と呼ばれています。
図11-2は、モバイル水素が結晶粒界を割れやすくする効果を示した概念図です。結晶粒界が割れやすくなるのは、割れる前の粒界のエネルギーと割れた後の破壊表面のエネルギー差が水素の存在によって小さくなることが原因と考えられます。結晶粒界を割れやすくする元素は他にもありますが、室温ぐらいの温度では動くことはできません。しかしながら、体心立方晶の鉄の中の水素だけは、室温においても速い拡散速度を持ち得るのです。例えば、数mmの厚さの鉄試料の中に水素を注入しても、数分でほとんど外へ抜けてしまうほどです。そのような水素は、結晶粒界における鉄原子間の結合が切れようとしているところに近づくとその切断を助ける働きがあると考えられます。その効果を第一原理計算及び熱力学的解析によって詳しく計算した結果、図11-3のように、割れる前に結晶粒界にあった水素だけでは、脆化効果が小さいはずの現実的水素濃度領域(〜10-6原子分率)においても、モバイル水素によって粒界の割れやすさが大いに促進されることが分かりました。