図7-9 窒素及び酸素のK殻吸収端におけるEPR信号の異常な増大
図7-10 DNA中の特定元素(窒素原子(N))のK殻へのX線吸収過程
低線量放射線の人体に対する影響を正確に評価することは、今日の社会において最も重要な課題のひとつです。特に、遺伝情報を担うDNA分子の損傷プロセスとその修復については、未だ解明が待たれている研究領域です。私たちは、放射線によってDNAが損傷していく過程に新しいメカニズムを発見しました。
放射線、特に荷電粒子が照射されると、細胞中では様々な大きさのエネルギーが粒子からDNA分子に与えられ、このエネルギーに応じて多様な損傷プロセスが同時並行的に進行します。DNA損傷プロセスの全貌を明らかにするためには、個々の過程を抽出し解析する必要がありますが、これまではその手法がありませんでした。
私たちは、特定のエネルギーのX線を用いることで、この問題の解決を図ってきました。DNA損傷に至る過程では、イオン化により最外殻にひとつだけ残る電子(不対電子)を有した反応中間体を経由すると考えられています。そこで、大型放射光施設(SPring-8)から得られる単色の軟X線を、エネルギーを少しずつ変えて照射し、DNA分子を構成する窒素及び酸素原子のK殻電子のイオン化レベル付近において不対電子の生成量がどのように変化するかを詳細に調べました。不対電子は非常に反応性に富み、寿命が短いため直接観測はこれまで極めて困難でした。そこで私たちは、ビームラインに直結した電子常磁性共鳴(EPR)装置を用いることで、照射しながら不対電子生成の「その場」観測を行いました。その結果、図7-9に示すようにK殻電子がX線を吸収する確率(線)にほぼ比例して、EPR信号の強度すなわち不対電子の生成量(線)も変化することが分かりました。更に興味深いことに、イオン化レベルをわずかに超えたエネルギーのX線を照射した場合、EPR信号の異常な増大が観測されました。私たちは理論解析により、この増大が、イオン化する途中の低速電子がDNA分子に再捕獲されることによるものであることを突き止め、このプロセスがDNA損傷につながる新しいプロセスであることを明らかにしました(図7-10)。
今回得られた結果により、高速荷電粒子線が引き起こすDNA損傷の中でも、特にK殻電子のイオン化を起点とするDNA損傷について、その反応過程の解明を目指した研究が大きく進展することが期待されます。
本研究は、独立行政法人日本学術振興会科学研究費補助金(No.21310041)「放射線によるクラスターDNA損傷の構造と難修復特性の研究」の成果の一部です。