図5-33 (a)新規モデルの二次電子の運動の特徴、(b)二次電子が重粒子線ビームの軌道付近に留まる確率とイオン衝突電離断面積の関係
図5-34 36 MeVの炭素イオンを水に照射したときの動径線量
重粒子線がん治療は、X線を用いた放射線療法と比べて正常組織への被ばくが小さく、体内のがん細胞を狙いうちできることから、今後の健康長寿社会の実現に必要な技術の一つに挙げられます。がん細胞中で、重粒子線(重イオン)は標的分子(主に水)と衝突しエネルギーを付与しますが、その際に生成される二次電子も、エネルギー付与(吸収線量)に寄与します。したがって、治療計画策定においては、二次電子の運動を考慮した重粒子線の軌道からの垂直距離の関数としての線量分布(動径線量)の評価が重要になります。
動径線量はモデルを構築して、それを基に計算プログラムコードを作成し、そのコードをスーパーコンピュータ上で動作させて計算します。従来用いられているモデルでは、標的を連続体として取り扱うため、二次電子の運動に対して標的イオンの電場が考慮されていないという欠点があります。そこで、私たちは標的を分子の集団として取り扱い、現実に近づけて、さらに重粒子線照射により発生するイオンと二次電子の電気的相互作用を組み入れたモデルを構築しました。このモデルで二次電子の運動をシミュレーションした結果、従来モデルでは重粒子線の軌道から遠ざかる一方であったのに対し、軌道付近で束縛される成分があることが分かりました(図5-33(a))。また、二次電子が軌道付近に留まる確率は、イオン衝突電離断面積が大きいほど高くなることが分かりました(図5-33(b))。
図5-34に私たちのモデルと従来のモデルで計算した動径線量分布を示します。今回、分子イオンの電場影響を取り入れたことで、重粒子線ビームの軌道から1 nm以下の領域では、従来の計算結果より最大10倍程度、動径線量が大きくなることが明らかになりました。これは、二次電子が軌道付近に留まり、標的分子との衝突を繰り返したことによる効果であると考えられます。
現在は、染色体のサイズに相当するミクロン程度の領域で動径線量を評価し、治療計画の策定を行っていますが、今回の結果は、DNAのサイズに相当するナノメートルオーダーの領域での動径分布評価が重要であることを示唆しています。今後、ナノメートル領域での動径線量がDNAに与える影響を詳細に調べ、より高度な重粒子線がん治療の実現に貢献していきたいと考えています。
本研究は、日本学術振興会科学研究費補助金基盤研究(C)(No.25390131)「粒子線照射での物理過程から化学過程への移行中の物理現象解明のための計算コード開発」の成果の一部です。