図3-8 BaTiO3結晶中のμ+に束縛された電子の状態(概念図)
図3-9 電子を束縛したμ+と電子を放出したμ+の割合の温度依存性
積層セラミックコンデンサ(MLCC)は現代のエレクトロニクス産業に欠かすことのできない基本電子部品であり、スマートフォン等の身近な電子機器に数多く使用されています。MLCCの誘電材料には主にチタン酸バリウム(BaTiO3)が用いられており、素子の性能はその品質に大きく依存します。ゆえに、誘電材料の品質管理は素子の機能・信頼性に直結する非常に重要な課題となっています。現在主流となっているMLCCは内部電極に酸化しやすい素材を使用しており、このため素子を焼き固める工程は水素を含んだガスの中で行われます。この際、条件によっては誘電材料の性能低下が生じることが知られており、その原因の究明が求められています。
本研究では、この焼成過程において誘電材料の内部に水素が入り込む可能性に着目しました。物質中に入り込んだ水素は多様な電子状態を取り得るため、BaTiO3に水素が混入した場合の影響は自明ではありません。私達はこれを調べるための道具として素粒子の正ミュオン(μ+)を用いることにしました。μ+が電子を一つ束縛した状態はミュオニウムと呼ばれ、水素原子と非常に良く似た電子構造を持つことが知られています。ゆえに、μ+をBaTiO3に打ち込むことで結晶中に水素が混入した状態を模擬し、その影響を選択的に調べることができるのです。μ+を用いるもうひとつの利点は検出感度の高さにあります。これによりほかの実験手法では検出が困難な希薄極限の不純物水素に対応する情報が得られます。
私たちはJ-PARCのミュオンビームをBaTiO3結晶に打ち込み、ミュオンスピン回転法によりμ+周辺の局所的な電子状態を調べました。実験の結果、−190 ℃以下においてμ+の周辺に電子が弱く束縛されていることを示す信号が観測され、この電子の軌道は図3-8のように大きく広がっていることが分かりました。図3-9は電子を束縛したμ+と電子を放出したμ+の割合の温度変化を示しています。温度上昇に伴い、弱く束縛されていた電子が熱エネルギーを得ることで結晶中を動き回れる状態になり、その結果、電子を手放したμ+の割合が増加しています。この温度依存性から、電子デバイスを動作させる温度域ではほとんどのμ+が電子を放出した状態にあることが分かりました。不純物水素もこれと同様の機構により電子を放出し、コンデンサ用途には望ましくない絶縁性の低下を招くと考えられます。