図5-6 J–PARCの高分解能な中性子回折装置「匠」
図5-7 引張塑性変形した状態の軸方向の回折プロファイルの例
図5-8 引張変形の負荷ひずみ量に対する転位密度の変化
マルテンサイト鋼は、Fe–C系合金(鋼)をオーステナイト組織が安定な高温領域から急冷したときに起こる速い相変態によって形成されたマルテンサイト組織を有する鋼であり、転位と呼ばれる欠陥を高密度で含んでいるため高強度構造材料としてよく知られています。マルテンサイトには、生成温度範囲によってラス、バタフライ、レンズ、薄板状の四つの形態が存在します。これらのうち、ラスは熱処理用鋼に現れる実用上最も重要な組織形態です。ラスマルテンサイト鋼は、ラス状のマルテンサイトを持つ鋼のことをいいます。ラスは数十nmの帯状(層状)の領域であり、いくつかのラスはブロックを形成し、さらに配向がほぼ同じブロックは集合してパケットを形成します。ラスマルテンサイト鋼は、塑性変形の初期段階では非常に大きな強度増加(加工硬化)を示すという特徴を持っています。しかしながら、転位密度が非常に高く組織が微細であるため電子顕微鏡のような手法では組織変化の観察が困難であり、大きな加工硬化のメカニズムが解明されていませんでした。
私たちは、J–PARCの中性子回折装置「匠」(図5-6)の装置高分解能を利用した転位評価手法を開発し、この手法をラスマルテンサイト鋼の引張変形中の中性子回折実験で得られたデータの解析に応用し、引張塑性変形中の転位の密度や配置状態等を定量化することで引張変形中の加工硬化メカニズムを解き明かしました。図5-7は引張塑性変形した状態の引張方向の回折プロファイルを示しています。変形前は対称性の良い回折プロファイルが、塑性変形後は非対称になることを発見しました。CMWP(Convolutional Multiple Whole Profile fitting)法と呼ばれる転位評価解析によるプロファイル解析を行ったところ、非対称性のプロファイルを二つのサブピークに分離することに成功し、塑性変形の原因である転位すべりがパケット間で異なることを示唆しました。すなわち、転位すべりに有利な軟質パケット(ソフト構成部分:SC)と不利な硬質パケット(ハード構成部分:HC)の存在を発見しました。
さらに詳細な解析を行った結果、二つのパケット間で応力及び転位密度・転位配置の分配が起こることも発見しました。例えば図5-8において、変形前の転位密度が既に大きいにもかかわらず、HCでは変形中の転位密度が増加し、より大きな応力を負担して加工硬化が起こりました。一方、SCでは転位密度が減少し軟化が起こりました。このことは、HCが加工硬化に重要な役割を果たしていることを表しています。これらの結果は、ラスマルテンサイト鋼が塑性変形の初期段階で大きな加工硬化を起こす原因を明らかにしました。
今後は、この転位評価解析手法及び装置の高度化を行い、先端鉄鋼や金属材料の開発のみでなく、日本刀の結晶学的組織及び転位解析を行い古代の冶金学の解明にも役立てたいと考えています。