図12-7 伸線加工した共析鋼の水素放出曲線の比較(a)実験結果(b)計算結果:グラフ内の数値は伸線加工率を表します。
鉄鋼は原子炉施設のみならず様々な建築物に用いられる基本的な構造材料です。鉄鋼材料にはその製造過程において空孔や転位,粒界,相界面,介在物などの結晶の並びを乱す格子欠陥や不純物元素が存在します。特に、小さく軽い元素である水素は環境中からも不純物元素として侵入します。更に水素は鉄鋼材料内を移動し、格子欠陥と結合し、その機械的性質を大きく変化させます。またこの変化は材料の強度低下につながります。そのため材料内での格子欠陥の状態や水素の存在状態を知ることは重要な課題となります。
鉄鋼材料中の格子欠陥は、欠陥がない結晶領域を移動する水素を捕らえることから捕獲サイトと呼ばれ、その種類によって捕獲のエネルギーが異なります。概念的には、エネルギーの谷が深い欠陥は強く、浅い欠陥は弱く水素を捕獲します。そのため、浅い谷の水素は低温で、深い谷の水素は高温で、捕獲サイトから周囲の領域へ放出されます。この性質により、一定速度で加熱される試料から放出される水素の量がある温度でピークを示せば、それは特定の捕獲エネルギーを持つ欠陥から放出された水素に対応すると考えられます。そのため、試料温度と放出水素量の関係を表す曲線の解析から試料内の欠陥の種類や量,捕獲エネルギー,捕獲されていた水素量などの情報を得ることができます。このような分析を昇温脱離分析といいます。そこで、それらの量や関係を見積もるため、水素放出過程をモデル化し、昇温脱離分析の実験で得られる水素放出曲線を再現するシミュレーションを試みました。本計算モデルでは、各温度で捕獲サイト内と周囲での水素量の平衡状態を計算し、実際には結晶内を拡散する捕獲サイト周囲の水素をそのまま放出水素として放出曲線を再現しました。これは、欠陥がない結晶領域での水素の移動がとても速いとの仮定に基づき拡散の効果を無視した水素放出過程のモデル化です。
冷間伸線加工によって捕獲エネルギーが異なる複数の欠陥を含む共析鋼の放出曲線を本計算モデルで計算した結果、実験の曲線を良く再現することが分かりました(図12-7)。従来の計算モデルでは再現が難しかったこのような二つのピークの放出曲線を再現できたことにより、それぞれのピークに対応する欠陥の量や捕獲される水素の量、捕獲エネルギーを分離して見積もることが可能となります。また特定の欠陥のピークを分離させるような実験条件を示唆することもできます。
この概念や技術は、鉄鋼材料中のヘリウムの存在状態の推定などにも応用が可能であり、見積もられる欠陥の量,欠陥に捕獲される不純物元素の量,捕獲エネルギーなどは、今後、原子力分野における鉄鋼材料の脆化や硬化などの機械的性質の変化の研究に役立つと考えます。