図3-11 磁場を感じて回転するμ+スピン
図3-12 SrTiO3のμ+SR周波数スペクトル
シリコンを基幹材料とする従来のエレクトロニクスの限界を超えて、電子デバイスのさらなる高機能化を実現するために、近年、金属酸化物を基幹材料とする「酸化物エレクトロニクス」の研究が盛んに行われています。その中で鍵を握るのが、チタン酸ストロンチウム(SrTiO3)という酸化物です。SrTiO3はコンデンサ用の誘電材料としてよく知られた絶縁体ですが、これにニオブや水素といった不純物を添加したり、結晶中の酸素を引き抜いたりすると、伝導帯に電子が入って電気が流れるようになります。こうして注入された余剰電子は、遷移金属酸化物の中では例外的に高い移動度を示すことが知られており、この性質が様々な応用につながると期待されています。
このように「動きやすい電子」が存在する一方で、電子を注入したSrTiO3では「動きにくい電子」の痕跡も同時に見つかっており、その正体は長年の謎とされてきました。一般に「動きにくい電子」は「動きやすい電子」とは全く異なる電気・磁気的性質を持つため、前者はこの材料から新たな物性を引き出すための鍵になる可能性があります。
私たちはこの「動きにくい電子」の正体を明らかにするために、+1価の電荷を持つ正ミュオン(μ+)と呼ばれる素粒子を用いることにしました。μ+は軽い水素原子核と見なせるため、これをSrTiO3に打ち込むことで結晶中に水素をごくわずかに添加した状態を模擬することができます。さらに、μ+はスピンを源とする微小な磁石としての性質を持っているため、それを磁気センサーとして用いることでμ+とともに持ち込まれた余剰電子について原子スケールのミクロな知見を得ることができるのです(図3-11)。μ+を使ったこの測定は、水素そのものを用いた類似の測定に対し、信号の検出感度において大きな優位性を持っています。
私たちは加速器により得られたμ+ビームをSrTiO3単結晶に打ち込み、μ+スピン回転(μ+SR)法により余剰電子の状態を調べました。低温における測定により、私たちはμ+に隣接するチタン原子に捕獲されて動けなくなっている余剰電子を観測することに成功しました(図3-12)。さらに、この局在した電子は予想に反して束縛が非常に弱く、わずかなはずみで結晶中を動き回る「動きやすい電子」と入れ替わる可能性があることも分かりました。これらの結果は、水素を添加したSrTiO3における「動きにくい電子」の正体が、“水素原子に隣接する特別なチタン原子に一時的に捕われた余剰電子”であることを示唆しています。これは長年の謎とされてきた「動きやすい電子」と「動きにくい電子」の共存機構を解明する上で、大きな手掛かりになると考えられます。
(伊藤 孝)