図5-22 タンパク質との結合によるDNAの変形
図5-23 (a)DNAの中性子準弾性散乱スペクトル(b)スペクトルの幅
生命の設計図であるゲノム(DNA配列)が多くの生物種で明らかにされ、ゲノムから生命機能を解析・予測する研究基盤が整ってきました。しかし、遺伝子発現の過程で形成されるタンパク質とDNAの複合体の立体構造からは、アミノ酸と塩基の相互作用には必ずしも明確な配列の対応関係が見られず、このことがゲノムから機能を予測することを困難にしていました。最近の研究では、“直接認識”と呼ばれるタンパク質とDNAの直接的な相互作用だけでなく、“間接認識”と呼ばれる、DNAの配列依存的な構造の変形のしやすさ(図5-22)が、ゲノムにコードされている情報として重要であることが分かってきました。“間接認識”では、配列依存的なDNA構造の揺らぎを解析することが重要であることから、DNAの運動を直接的に観測できる実験的手法で実証することが求められていました。分子構造の熱揺らぎを測定できる中性子準弾性散乱は、このような目的に最適です。
本研究では、これまで行われてきた系統的なコンピュータシミュレーション計算結果の解析で、最も硬いと予測されている5’CGCGAATTCGCG3’と最も柔らかいと予測されている5’CGCGTTAACGCG3’の2種類のDNA配列を研究対象とし、J-PARCの物質・生命科学実験施設(MLF)のAMATERAS装置を用いてDNA分子の中性子準弾性散乱実験を実施しました。その結果、精度の良いDNAの中性子準弾性散乱スペクトルを取得できました(図5-23)。そして、中性子準弾性散乱実験データを詳細に解析した結果、DNA構造の運動性の指標となるスペクトルの幅はAATTよりもTTAAの方が広いことが分かり、DNAの分子構造の柔らかさの違いを観測できました。この結果は、シミュレーション計算による予測を実証するもので、これまでシミュレーションや結晶構造の統計的な解析から提唱されてきた、DNAの認識機構におけるDNA構造の変形しやすさという間接的な相互作用の重要性を裏付ける実験結果です。今回は二つのDNA配列について比較しましたが、今後、様々な配列について系統的に調べていくことで、例えば新たなDNA結合タンパク質の分子設計などが可能になってくると期待できます。
本成果は、DNA配列には塩基の情報だけではなく、曲がりやすさという情報も含んでいることを実証したものです。今回明らかにしたDNAの構造特性の情報は、遺伝子のオン,オフを制御する仕組みの解明に貢献するだけでなく、特定の遺伝子を発現させたり、細胞分化を誘導させたりするような遺伝子治療や再生医療を実現するための基礎になると期待されます。今後もJ-PARC/MLFでの中性子実験によって、DNAやタンパク質など生命活動の根幹として働いている分子の機能発現の仕組みが明らかになってくると期待されます。
本研究は、文部科学省科学研究費補助金(No.18031042)「中性子散乱実験と分子動力学計算による蛋白質−DNA認識機構における水の挙動解析」の成果の一部です。