図5-15 予ひずみを与えたSUS304試料のX線回折プロファイル
図5-16 SUS304試料片(伸び20%)のローレンツ電子顕微鏡写真
ステンレス鋼は、γ鉄を主成分としクロム(Cr)10.5%以上、ニッケル(Ni)などの合金元素を微量に含む合金鋼です。SUSはその呼称で、その代表的なものが18%Cr、8%Niを含むJISで規格化されたSUS304です。SUS304は錆びにくく機械的性質も大変優れているため、厨房・家電や自動車・鉄道車両、原子炉シュラウドなど幅広く実用されています。SUS304に外部から力を加えると結晶構造が変わり、強くなる、伸びも大きくなることが知られています。このような壊れにくく、加工しやすい特性を向上させるためには、結晶構造の変化のプロセスを解明することが大変重要となります。
SUS304の結晶構造は、γ相と呼ばれる面心立方構造(face-centered cubic: fcc構造)の相の中に発生する欠陥や転位を起点に体心立方構造(body-centered cubic: bcc構造)のα’相に変化することが知られています。これまでの研究において、γ相からα’相への変化において中間相としてε相と呼ばれる六方最密充填構造(hexagonal close-packed: hcp構造)が出現することが電子顕微鏡観察により報告されていますが、ε相は室温以下の低温でしか観測されておらず、「室温においては」ε相は出現しないと考えられてきました。
本研究では、室温においてε相が生成していることを放射光回折法により調べました。実験は大型放射光施設SPring-8のビームラインBL02B1において行いました。図5-15は得られたX線回折データです。予ひずみの値が大きくなるに従いε相が生成し、増加していく様子が観察されました。さらに、このε相の増加に遅れてα’相が増加していく様子が観察されました。ε相の量はγ相やα’相に比べると極めて少ないですが、SPring-8の高輝度光源を用いることにより明瞭に観測することができました。この結果はこれまでの報告とは異なり、室温においてもε相が生成していることが分かりました。そして、γ相は中間相ε相を経てα’相へ変化していることが示唆されました。
そこで、次にα’相がどのようにして生成するのか、ローレンツ透過型電子顕微鏡を用いてミクロなスケールで組織観察を行いました。α’相は強磁性体ですのでローレンツ透過型電子顕微鏡を用いることによって非磁性体であるγ相(及びε相)の領域と区別することができます。予ひずみを与えた伸び20%の試料を観察したところ、図5-16に示すようにγ相の欠陥に沿ってα’相が存在していることが分かりました。このことはα’相が、積層欠陥や転位の部分を起点に成長していることを示唆しています。
以上の測定から、室温での加工誘起マルテンサイト変態において新たに見いだされた一つのプロセスとして、γ相の双晶境界付近にε相が生成し、それがα’相へと変態することが分かりました。これらの相がステンレスの特性の起源となっている可能性があるため、現在これらの性質を詳細に調べています。
なお、SUS304は水素を添加すると引張延性が下がり脆くなるため、実用面において大きな課題となっています。私たちの最近の研究から、水素による脆化は室温において高密度のε相が形成されることによって起こることが分かってきました。すなわち本研究の成果は今後、水素によるステンレス鋼の脆化の機構解明と水素環境中で使用する材料提案や材料開発にもつながると期待されます。